江戸時代、着物などの柄を染める為に型紙が使われていました。
元は伊勢白子(三重県鈴鹿市)で独占的に作られていた染型紙ですが、やがて江戸や京都、そして喜多方(福島県会津地方)でも作られるようになります。
喜多方は型紙の作成に必要な和紙や豆柿といった材料の産地で、染型紙文化の基盤を築くのに最適な場所だったのです。
染型紙の一大産地にまで発展した喜多方の染型紙は昭和の初めまで東北地方の装飾文化を彩り、この技術は「会津型」と呼ばれ大切にされました。
大正期には会津型の最盛期を迎えますが、海外からの技術の流入によってファッションの主流は和装から洋装へと変わり、合成染料の輸入もあって染物屋は減少。100年以上続いた会津型の歴史は1935年(昭和10年)に幕を閉じました。
それから約半世紀の時が過ぎ、1982年(昭和57年)に小野寺家の蔵から約37,000点もの型紙が発見されます。
貴重なこれらの資料は価値ある文化的財産として喜多方市に寄贈されました。